| 破壊的カルトの裁判 |
元オウム真理教諜報省トップの井上嘉浩の第1審判決が出された。求刑どおりの死刑という大方の予想とはちがい無期懲役に処された。この判決が多くの人々に波紋をよんだことは察しがつく。無差別テロをも含む10にも及ぶ凶悪犯罪に関与した凶悪犯に対する責任の重大性や未だ当然癒しようのない痛ましい被害者感情からすると当然極刑に罰すべきという論調は理解できる。
率直にいって、私も死刑以外の判決はあまり予期せぬまま、判決の言い渡しを聞いていた。ただ、「もしかしたら、すごい判決が・・・」という思いもまったくないではなく、運命の日(6月6日)の前日、マインド・コントロールについて行っている私の授業を聞く静岡県立大学の学生たちに対し関連する報道への特別な注目を促した。なぜなら、このような裁判は世界にもまれで、日本ではもちろん初めて破壊的カルトのマインド・コントロールが争点になったケースなのだ。つまり、組織の指示が絶対で正しく、あくまでも善意と信じて服従する行為の帰結として生じた事件の裁きである。そして裁判所は精神科医ではなく初めて社会心理学者による心理鑑定を採用し、犯行事情および現在の被告心理の理解に努めてきた。
| マインド・コントロールの心理鑑定 資料:判決要旨から抜粋 |
被告の心理鑑定人を務めた私は、その鑑定書や法廷証言において被告に及ぼしたいわゆる「マインド・コントロール」の影響を説明した。主旨としては、オウム真理教の集団運営における心理的拘束がいかに強力であったかを、そして今はその直接的な影響力からはやっと脱したが、その後遺症的症状として現実感覚の乏しさが残っていることを示した。
ただ、誤解のないように言っておきたい。私はこれまで何人かのオウム犯罪被告のため法廷証言をおこなってきたが、彼らに刑事責任の能力がなかったと主張したことはないつもりだ。結果としては「心身こう弱」とよく似た現象になるが、井上被告をも含めて彼らは精神的に正常であったと判断している。しかも被告ら個々の性格的特徴としては、相対的にみて穏やかで狂暴な攻撃性は認められないのだ。問題は、彼らの日常生活に科された修行や活動、情報接触の制限などの異常なる体系的環境操作にあると見なしている。つまり、被告にあらずとも、同様に生活を操作されれば、他の人でも同様の悲惨極まりない行動へと関与したであろうということである。ただし、検察官も裁判所もおそらく的確に理解しているところであろうが、その影響力の程度については、ただ強力でほとんど個人の判断はなさなかったであろうといえるのみで、客観的な科学的基準をもとにどの程度拘束されていたかを確認することは困難である。その主な理由は、マインド・コントロールの研究が十分になされてきているとはいえないからである。そんな学界の状況において、私は、
徹底的に被告の置かれた状況を詳しく分析し、関連する様々な心理学研究の成果に当てはめた査定をおこなった。
| 判決の妥当性 |
法廷での裁判長の朗読は、一つ一つ肯けるものであったと思う。裁判所は、たとえ現場指揮官ではなかったにしろ許されないという犯罪行為に対する責任の重大性を指摘し、ほとんど弁護人の主張は認められなかったように思えた。そして後半になって被告の受けていた心理的拘束、いわゆる「マインド・コントロール」について言及された。その点においても、弁護人の主張するような免責は認められなかった。つまり、被告はマインド・コントロールされていたとはいえ、責任能力はあったと判断された。
ただし、私の心理鑑定に対して信憑性の高いものとして評価してくれたようだ。
裁判や法には素人である私ではあるが勇気をもって発言すれば、責任能力自体はあったと判断する私も、強いマインド・コントロールを受けた者に対しては情状酌量されていいのではないかと思っている。だから井上被告のケースが無期懲役だという判決には一つの道理にかなっていると思っている。ただ仮に主文としては死刑判決がでていたとしても、私としては今回の裁判所の説明は納得いくものであったと思っただろう。なぜなら、鑑定書や私の証言、それに引き続いてマインド・コントロール被影響者へのカウンセリングを行ってきた浅見定雄(元東北学院大学教授、神学博士)証言への正確な評価があり、犯行の仕組みや被告心理の特殊性を理解してくれていたからだ。端的にいえば、このケースがマインド・コントロール状況への吟味もなく、操作者の教祖や正大師と同じ法的根拠で説明され同等の刑罰に処すような単純な判決であれば、歴史を見誤るものとして納得がいかない。
| 我々が向き合う問題 |
つまり、この判決は、今後も起こりうる強いマインド・コントロール影響下の犯罪事件をわれわれがどう理解するかを検討する上での重要な課題をなげかけている。私にしても被害者感情から考えると、行為の結果を重視して死刑もやむなしと思う。しかし裁判所が示した死刑判決への「幾分かの躊躇」の意味をどうかよく考えてほしい。そしてまた、被告の悔恨を詳しく知るところから、今こそ個々人が真剣に現代人を扇動する破壊的カルトの活動についての対策を考えなくては、第2、第3のオウム事件が懸念される。